私のおばあちゃん

 私がおばあちゃんに初めて出会ったのは、昭和38年1月、おばあちゃんが50才の時でした。

 自宅の仏間でお産婆さんに取り上げられてからの出会いです。

喜びは初孫の顔じっとみる

 おばあちゃんは日本舞踊、三味線、そして川柳と色々な事に情熱を注いできた人ですが、私の誕生のうれしさを後にこのような川柳にしていました。

 私も、その初孫に喜ぶおばあちゃんの年齢になるにつれ、今と違って物も無く、戦争という激動の時代を生き抜いたおばあちゃんはどんな生活をしていたのかと思うようになりました。

 私が物心ついて知っているおばあちゃんは、腕の良い美容師、そして経営者で、日本舞踊、三味線、川柳と生きている事すべてに一生懸命。うちこむ全てが自分自身の挑戦のように孫の私から見えました。

 この頃何だか急におばあちゃんが懐かしくなり、拙い文章しか書けないにも関わらず、私のおばあちゃんの写真や思い出を、今、まとめておきたいと思うようになりました。

小説に書きたいほどの生きざまよ

私のおばあちゃん、森岡姫子を知っている方、知らない方もぜひ私のおばあちゃんと、その生きた時代を知っていただき皆様の思い出話のきっかけになりましたら幸甚です。

ゼロからの出発だった立志伝

昭和8年頃

右 ヒメコ

昭和9年頃

左 あいこ

右 ヒメコ

亡き母の足跡たどる寺まいり

昭和14年

中央 イクコ

時代不詳

右 マサ・イクコ

習いごとまだまだまだときりがない

昭和13年6月9日

ヒメコ 三味線

ほめられて初々しさは頬を染め

年代不詳

右上 イクコ

左前 ノリオ

   ユキオ

夢に見るわが子はいつも笑ってる

ひな祭り 

左 イクコ・トキミ

右 フミエ(イクコ従妹)

親子だと顔が証明する迷子

時代不詳

左 いくこ

中央 ふみえ 靖雄 

右 ときみ

探し物引き出し全部しらぬという

泣いた夜は母の笑顔に夢で遭い

昭和18年 

一家全員で

祭り着のあげに子供の伸びを見る

昭和18年

ヒメコに着せてもらう

いとし子の仕種いまだに忘れかね

ありし日の

ヤスオ

白壁に墨ぬりつけた戦時中

借金に追われたころも立志伝

起工

昭和22年4月22日

竣工

昭和22年7月31日

新築記念

昭和22年8月6日

尺八の澄んだ音色にある年季

竣工

昭和25年9月

撮影

昭和25年11月14日

ひた走る母ののこした道しるべ

起工

昭和35年6月5日

竣工

昭和35年8月10日

撮影

9月2日(父)

青空のどこか希望が湧いてくる

改増築

昭和44年5月初旬~

昭和44年10月初旬

仕事場に出ると足もと軽くなり

年代不詳 イクコ

先生に叱られたこと良く覚え

練習は誰にも負けていぬ自信

手から手へ渡る赤ちゃん宮参り

花嫁の輝くような化粧ばえ

嫁ぐまで解かせてならぬ躾糸

気に入った髪形 鏡見つめてる

若い日に描いた夢をたどってる

嫁ぐ日の笑顔 今日こそ日本一

反抗期祈る心でしかってる

1989年

電車を乗り継ぎ

埼玉に遊びに来る

いつも着物で

生活していました。

ひまわりのような笑顔の初ひ孫

気長ではあるがひ孫にたくす夢

母が子に子が母になる二度わらし

平成6年6月

姫子おばあちゃんの誕生日会

店もって勲章ものの六十年

1994年

美容院の前で

夏でも着物姿です。

亡き母の約束まもり寺まいり

未来まで持って行きますつきぬ業

生かされて自分の力何もなし

喜怒哀楽鈍感になり丸くなり

泳ぎきる八十年の浮き沈み


今回の執筆にあたり、おばあちゃんのことを知っている方々の思い出話です。

・仕事に使命と責任を感じていた。「見て覚えなさい」が口癖だった。

・とても美しく、その歳その歳の美しさがあった。

・教える厳しさは有名で、修行は辛かったが、森岡を卒業できたら一人前と、後に勤めた店主に言われ嬉しかった。

・とても優しく、愛のあふれる方だった。

・着物のコンテストで上位入賞になった。

・厳しかったが仕事に筋が通っていた。

・美容室の二階を開放し、近所のお子さんや子供たちが一緒に習字を習字の先生に習ったり、おやつを食べたりしていた。

・一つの作品、たとえば髪形や着付、化粧などに対してどの様にしたら、その方本人にとって最高の出来ばえになるのかを常に念頭に置いて仕事に取り組んでいた。

・出来上がった作品は、後から直すことが出来ないのだからといつも真剣だった。特に写真撮影は、いろいろな角度、様々な距離から何度も確認し撮影してもらい、撮影後もその写真がお客様の手に渡る前に写場に出向き、最後の確認をしていた。その理由を本人に聞くと「お客様の一生の記念になるのだから」と妥協しなかった。

・人をうらやんだり、ねたむことはしない。そんな気持ちが出そうになったら、自分もどうしたらそんな風になるか努力しなさいと言われた。

・「ああすればよかった」「こうしたかったのに」を聞いたことがない。いつも真剣だから、チャンスが来たらすぐに手や体が動いていた。

・婚礼の仕度の仕事で従業員がご祝儀を頂き帰社すると、すぐにお礼の電話をかけていた。

・知人の息子さんが遊びに来ると、まるで我が子のように可愛がり、帰るときもそっと窓から見守っている優しさがあった。

・厳しい人だがそれにはいつも相手を想う愛情があった。一度言うと何度も言うことなく、見て覚える精神だった。

・どうしたら出来るようになるか、気に入った写真や文章を、新聞や雑誌からスクラップして研究していた。

・あっさりとした人だった。そして人の話を黙ってよく聞き、聞いた後は「あなたが言うことだから」とサラッと答えて決断していた。


おばあちゃんの思い出

思い出すのはおばあちゃんの真剣な姿です。

どんなときにも目の前のことにただただ全力で、ひたむきにガムシャラに向き合っていた。そんな姿を思い出します。

そしてふと私のほうを見て「よし子来とったんね」と声をかけてくれてました。

私はそんなおばあちゃんが大好きで、声をかけてもらえてうれしかったのを覚えています。

だからか、おばあちゃんが亡くなって月日が経った今でも、お店でも、おばあちゃんが使っていたお部屋でも、

「よし子、元気にしとるんね?」「体には気をつけるんよ」

と声が聞こえて来るような気がします。

そして目を閉じると、おばあちゃんのなつかしい香りが、どこともなく感じられます。

今回、私なりにおばあちゃんが歩いてきた道のりと向き合ってみました。

自分より若いものが自分より先に行ってしまった時、どんなに… と思うと、胸が苦しくなってしまいます。

「ごめんなさい、許してください」と仏壇で手を合わせて唱えていたおばあちゃんの声、私は一生忘れないです。

おばあちゃん!私が生まれて初孫はうれしいと川柳に詠んでくれてましたが、私でおばあちゃんの気持ちは少しは楽になった?少しは役にたてたかな?

私はいろいろな時間をおばあちゃんと過ごすことが出来て、心配や迷惑もいっぱいかけちゃったけど、おばあちゃんとすごせて私は楽しかったです。

もっと沢山の事をおばちゃんに教えてもらっておけばよかったなぁと、今になって思うけど、あの頃の私は幼すぎて、色々と足りなかったと反省してるよ。

でもこれからは困ったときには私の中のおばあちゃんに相談してやっていくから、しっかり応援してね。

それとお母さんに心配かけないように、身体に気をつけています。

だからおばあちゃんも安心してください。

今回、おばあちゃんのことを沢山の方に色々教えていただきありがとうございます。

私よりも年上の方からずっと?年下の方まで、色々な方におばあちゃんの話を聞けて本当にうれしかったです。

忘れないでいてもらえて、おばあちゃんも喜んでいると思います。

ありがとうございます。

私のおばあちゃんの本を最後まで読んでいただき、本当にありがとうございます。

そしてこの本ができたのも、おばあちゃんから私へと連なるすべての方のおかげ様と心より感謝致しております。